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「起死回生・アラーニャ王子」
1992年、アラーニャはスカラ座で「椿姫」に出演している。
これがその映像です。
http://youtube.com/watch?v=qdxm5fumPAw&mode=related&search=

悪くないのだ。
と言うよりも、非常に良い。
彼は自分の声質に合う役を演じていれば良かったのだ。

そもそもテノール、テナー(tenore)は、
高い声域の男声歌手(カウンターテナーほど高くはない)
あるいはその声域のこと言い、
「テノール」の呼び名は「保つ」を意味するラテン語のtenere、
「(主旋律を)保つ者」の意で、
元々グレゴリオ聖歌の長く延ばして歌う部分を指した。

オペラ歌手の場合は、
テノールの声質を以下のように分類、形容することがある。
上の方の声質は「軽い、柔かい、若々しい」印象を、
下の方はより「重い、たくましい」印象を与える。

一人の歌手の声質が加齢とともに変化していくことも多く、
殆どの場合それは「軽い→重い」の方向となる。

1)レッジェーロ
  役柄:単純バカ、お調子者
2)リリコ
  役柄:王子様
3)リリコ・スピント
  役柄:叙情的なロマンチスト
4)ドラマティコ
  役柄:英雄

アラーニャの場合も「椿姫」のような、
リリックな役柄が彼のハマリ役であった。

まるで、今までコメディードラマにしか出ていなかった俳優が、
いきなりハードボイルドな役柄に挑戦してしまったようである。

昔、渥美清の演じる「金田一耕助」を見たことがあった。
決して悪くはなかったのだが、最初から最後まで、
「寅さん?」っていう固定観念が取れなかった。

「アイーダ」のラダメス役も決して悪くない。
ただ、聴衆のラダメス像のほうが強かったのだ。

あとは、人それぞれの好みの問題である。
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by scalaza | 2006-12-29 07:01
日本オペラ「脳死をこえて」
オペラというと「イタリアオペラ」が代名詞のようになっているが、
「日本オペラ」と言うものも当然、存在する。
何を言っているのか分からないイタリア語より、
ある意味、ストレートに私たちの耳に入るであろう。

「脳死をこえて」と言うオペラはご存知であろうか?

時代は1983年…。
場所は主に京都府立医大付属病院という、ごく身近な設定である。
若い妻の日常生活の中に、突然、夫が交通事故に遭ったという連絡。
緊急手術を行った大津の病院で脳死の宣告を受け、
脳死と植物人間との違いや、(当時の)脳死判定基準が歌われる。

夫の手を握ると暖かいので、死んでいると思えない妻は、
京都の病院の主治医の所への移送を願う。

脳外科医や移植医が臓器移植を勧める一方、
患者の家族の心情も考え葛藤する主治医。
その主治医が患者の妻に臓器移植を提案し、
妻が承諾するストーリーがメインになる。

そして、移植適合者一位に選ばれながら、
濃霧で飛行機も船も出ず、京都の病院まで行けずに
焦って荒れ狂う徳島の少女とその父親。

適合者二位に選ばれて病院まで来たものの、
結局、一位の少女が到着して移植は受けられず、
落胆する主婦とその家族。

移植を受ける側の心情も場面として挿入し、
物語を多面的に厚くしている。

イタリアオペラのような、惚れた腫れただけがオペラではない。
ドラマ性のあるものには、すべてオペラ化が可能なのである。
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by scalaza | 2006-12-28 07:10
「レオナルド・ダ・ヴィンチ的舞台演出」

皆さんはもう「最後の晩餐」はご覧になったであろうか?
「ダ・ヴィンチ・コード現象」で今年一年も、かなり予約がとりにくかった。
個人で予約は難しい状態なので、旅行会社を通すわけだが、
それも早めに予約しないといけないのが現状である。
ミラノに滞在予定の人は、お問い合わせください。

その「最後の晩餐」は、15分という鑑賞時間のために、
あらかじめ完璧な下調べをしておかなければならないのである。

修道院の食堂に書かれた大きな壁画を見ると、
まるで劇場の中にいるような気がする。
客席から舞台を見ているような一体感…。
ルネサンスの絵画は「雛人形的」な「おすましポーズ」が殆どだが、
彼の絵画に登場する人物は、みな動いているのだ。

彼は空を飛んでいる鳥や、走っている馬をスケッチしたのだが、
動いている物体を目に焼き付けることが可能であった。

最後の晩餐もキリストの爆弾発言に対する「パニック状態」を、
まるで舞台写真を見ているように、見事に表現している。

彼は舞台演出家でもあったからだ。

つまり、あの横一列に並ぶ配列は舞台上でしかありえない。
キリストの声が水の波紋のように広がっていくため、
一番遠くにいる人物は、声が聞こえにくく身を乗り出して聞こうとしている。

例えば、日本のテレビドラマでもそうだが、
主役というのは、意外と演技が下手でもいい。
名脇役をそろえれば、ドラマが十分に成り立つ。
この最後の晩餐も同様、
キリストは、まるで大根役者かと思うくらい身動きがない。
まわりの弟子たちの演技力の高さによって支えられている。

このようにレオナルド・ダ・ヴィンチは、
舞台での視覚効果、ドラマチック性にも熟知していた人物であった。
ここは現在の劇場の原点でもある。

さてこの最後の晩餐は、絵画の右側の壁が明るく描かれており、
左側の壁が暗く描かれている。

なぜだと思いますか?

その答えは、実物を見た人だけが分かることでしょう。
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by scalaza | 2006-12-24 08:36
「速報!アイーダのチケット残りわずか」
何かと話題になっていたスカラ座の「アイーダ」。
年内の公演は22日で、ひとまずお休みです。
この後は「クリスマスコンサート」や
「くるみ割り人形」などの公演が行われ、
「アイーダ」は、また来年1月3日から始まります。

栄えあるスカラ座第一発目のオペラ「アイーダ」で、
2007年、新年を迎えましょう!

チケットのお申し込みはお早めに!
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by scalaza | 2006-12-21 21:47
「ロベルト・ボッレという男」
スカラ座の12月公演はアイーダと平行して、
「くるみ割り人形」(チャイコフスキー作曲)が始まった。
そして今回の見どころも、やはりプリモ・バレリーノである、
ロベルト・ボッレであろう。

1975年生まれのイタリア人のバレエ・ダンサー。
ミラノ・スカラ座のエトワール(トップ・ダンサー)である。
187センチ、髪の毛は黒に近い茶、目は緑という、
美貌とエレガントな踊りで知られている。

カザーレ・モンフェッラート(トリノ近郊)生まれ。
非常に若くしてスカラ座バレエ学校に入学する。
スカラ座バレエ団に入団してわずか2年後の1996年、
「ロメオとジュリエット」公演の終演後、
プリモ・バレリーノに指名される。

クラシックやコンテンポラリー・バレエの主役として活躍、
1996年にはわずか21歳で国際的キャリアへの道を踏み出す。

カイロ歌劇場創立10周年記念では、
ギーザのピラミッドでの大スペクタクルの「アイーダ」に参加。
1998年からはスカラ座のレジデント客演アーティストとなる。

2003年から2004年のシーズンにはスカラ座から
エトワールの称号を受ける。

1999年からロベルト・ボッレはユニセフの親善大使を務め、
2006年トリノ冬期オリンピック開会式に
イタリアを代表するバレエ・ダンサーとして出演…。

この華々しい経歴を見るだけでも、ちょっと興味が沸いてくる。

今回の「アラーニャ・スキャンダル」にも、
彼の人気度が一枚かんでいるらしいのですが、
「アイーダ」の第2幕2場、バレエシーンの拍手の大きさに、
アラーニャが気分を害したともいわれています。

第2幕の演出上、アクティング・エリアが
非常に狭いという悪条件でも彼は見事に表現し、
ラストは「踊るギリシャ彫刻」の一人舞台で締めくくる。

たった4分40秒の官能的なバレエシーン…。
スカラ座初日のニュースは、ロベルト・ボッレの凱旋でもあった。
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by scalaza | 2006-12-19 03:59
「例の事件」
「アイーダ」の公演中に観客のブーイングで主役歌手退場

CNNニュースより。
ミラノ――ミラノ・スカラ座で7日から公演が始まったベルディーのオペラ、「アイーダ」の舞台で10日、主役を演じていたフランス人テノール歌手、ロベルト・アラーニャ(43)が、観客からブーイングを受けたために公演中に退場してしまい、舞台衣装をつけていない代役が急きょ出演し、主催者が第3幕の開始前に観客に謝罪する、というハプニングがあった。

(中略)

このブーイングは、アラーニャが初日公演後に行った新聞とのインタビューで、スカラ座の観客は要求が多く難しい、と述べ、今回のアイーダには出演するがスカラ座での今後の公演はキャンセルする、と発言していたことに対して、観客が反発したものと見られる。

アラーニャは初日公演について、批評家から辛口のコメントを受けていたこともあり、ブーイングを受けた後、気分を害して舞台から退場してしまった。デュエットを歌うはずだった共演者は「ソロ」でその場を切り抜けたという。

観客席からは「恥を知れ」との声が上がり、劇場内は一時騒然した雰囲気となったが、ジーンズに黒いTシャツ姿の代役が舞台に上がって公演を継続した。

地元メディアによると、この代役は「急に捕まえられて、舞台に放り出された。思いがけない試練だったけれど、乗り越えられたようだ」と語り、公演終了後、観客による拍手喝さいは9分間も鳴り止まなかったという。

アラーニャによると、彼の妻でソプラノ歌手のアンジェラ・ゲオルギューも、オペラ座で来年上演予定の「椿姫」への出演を中止することを検討中だという。

そして、これが問題映像です。
http://multimedia.repubblica.it/home/503086

勝利の凱旋行進から一転して、死刑宣告を受けてしまうラダメス…。
この転落の軌跡はアラーニャのそれと似ている。

連日、新聞各紙で取り上げられる「アラーニャ・スキャンダル」。
思わぬ風当たりの強さに、ミラノのどこかで耐え忍んでいるのであろうか?

それとも案外、モンテ・ナポレオーネ通りで買い物に夢中だったりして…。
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by scalaza | 2006-12-15 18:05
「独占スクープ!潜入取材、ボックス席からの眺め(その2)」
ゼッフィレッリのアイーダの演出では第5番目のヴァージョンである。
やはり見どころは、第2幕2場の凱旋行進の場面であった。

舞台には、延べ300人…。
舞台稽古は大変だったであろう。
まるで運動会の入場行進を仕切る、体育の先生よりも苦労したであろう。
なぜなら、子供たちのほうが言う事を聞くからである…。

彼が日本公演で演出したときは、700人いたそうだが、
300人のイタリア人よりも扱いやすかったのは、間違いない。

しかし驚いたことに、凱旋行進への舞台転換は早かった。
なんと、25秒。
その後、現れた巨大エジプト神殿…、
まるでルネサンスの絵画を見ているようだった。

ルネサンスの絵画のように華やかで、
ルネサンスの絵画のように安定感のあるのだ。

「アレクサンドリアでの聖マルコの説教」(ブレラ絵画館)を
ふと感じさせ、縦と横のラインが直角に交差する構図を描き、
左右対称のバランスの良い舞台である

…が、あの時代の絵画は実際ありえないことが多い。
レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を例に挙げてみても、
実際は全員横一列で、食事をすることなどない。
すし屋のカウンターじゃあるまいし…。

つまり彼の舞台も、
ルネサンスの絵画のように現実的でないのだ。

まさに、ゼッフィレッリ・ワールドである。

非常に分かりやすかった点は、
舞台上で遠近法の中心となる消失点にエジプト国王を置き、
そこを中心とする放射線状のラインは、
そのまま当時のヒエラルキーを表現していた。

まるで美術館の中を歩いているような、色彩豊かな舞台。
それぞれの場面に相互性があったら、
より流動的な舞台であったかもしれない。

例えば、「最後の晩餐」「キリスト磔刑」「死せるキリスト」は
それぞれ個々の作品として取り上げられるが、
話としては、一連の流れの中の一場面にしかすぎないのだ。

それぞれ個々のものは優れているが、
全体の流れにかけている舞台…。
その象徴的な現れとして、
「例の事件」が起こったのかもしれない。
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by scalaza | 2006-12-14 08:48
「独占スクープ!潜入取材、ボックス席からの眺め(その1)」
何を着て行こうか…。
そういうことに頭を悩ますのも、楽しみの一つである。

今回は、失敗を繰り返さないように、十分に体調を整え、睡眠をとり、
また途中でお腹が鳴らないように、軽く食事もとっておいた。

完璧である。

すると不思議なことに、ヴィットリオ・エマヌエレ2世のアーケードは、
天国へ続く道のように、光り輝いているのだ。
道行く人々、オープンカフェに座っている人々は皆、
私に微笑みかけているようにさえ感じる。

そう、生まれて初めてのボックス席に、
私は明らかに浮き足立っているのだ。

ガレリア席専用の入り口から入っていった昔の私よ、さようなら…。
正面入り口から颯爽と入っていく私の耳に、
ふと、リングサイドの鐘の音が聞こえた気がした。

試合が始まったのだ。

ホワイエでの身のこなし…、まずは合格。
つかみはオーケーである。

しかし、この滅多に味わえないハイソサエティーな空気と、
夢のような上流階級の空間で、ひとつだけ気になることがあった。

むせ返るくらいに漂っている香水の中で、
私の周りだけ、さっき食べた「ケバブ」の匂いが漂っている…。

「オニオン抜き」にしなかったのは、唯一の誤算であった。
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by scalaza | 2006-12-13 08:48
「清きアイーダ」
豪華絢爛オペラのステレオタイプであるヴェルディ作曲の「アイーダ」。
中学生の音楽の教科書にまで載った、イタリアオペラの代表作である。

余談だが、私が学生のころの教員採用試験に、
「アイーダのあらすじを書け」と言うのがあったが、
ほかの学部の生徒にはかなり酷な問題であった…。

その「アイーダ」の最大の見どころは、
第2幕2場の勝利の凱旋行進とそれに続くバレエ。
「これぞオペラ!」と言わせるほどである。

しかし凱旋行進とバレエを合わせても、たったの6分15秒…。
2時間半のオペラの中では、ただのワンシーンにすぎないのだ。

実は「アイーダ」とは、
ドロドロの三角関係、三つ巴の人間関係を描いた
「昼のメロドラマ」なのである!
ただ舞台が古代エジプトに移っただけなのだ。

1人の男をめぐって対立する、2人の女。
父を助けたい、でもそれは彼を裏切ることになると苦悩する女。
愛する男を死に追いやってしまう女の苦しみ。
死を共にすることで結ばれる男女の愛。

主婦が好きそうな話が盛りだくさんである。

昼メロに例えると「アイーダ」の凱旋行進の場面とは、
主役である大物女優が、旦那の愛人に向かって、
「この泥棒猫!」と罵っている、非常に緊迫したシーンの後、
突然、コマーシャル・イン。

「アクロンなら毛糸洗いに自信がもてます…」

と、コミカルな音楽が流れてくるようなものである。
食い入るようにテレビを見ていた主婦も、
その時ばかりは、ソファーに深く腰掛け、
つい煎餅に手を伸ばしてしまう…。

これが第2幕2場の役割なのである。

夕方、買い物に出かけた主婦の頭に浮かんでくるメロディー。

「アクロンなら毛糸洗いに自信がもてます…」

あ、そうよ!アクロン買わないと…。

スポンサーの思惑通りなのだ。
緊張の後に生まれる「インプリンティング」。
インパクトのあるメロディは、私たちの耳に強烈に残ってしまう。

おそらく「アイーダ」を見たあと、
私たちの頭の中には、凱旋行進曲が流れているに違いない。

まさにヴェルディの思惑通りなのだ。
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by scalaza | 2006-12-13 01:56
「まずは心、そして動き」
かつての名女優、月影千草の言葉である。
(注)「ガラスの仮面」(花とゆめコミックス)より
つまり舞台の上での演技は、まず先に気持ちが先行しなければならない。

例えば、「水が飲みたい」と思うからコップに手が伸びるように、
人間の行動とは、まず先に気持ちが動いているのだ。

歌は心の表現と言われるように、人間の微妙な心の動きを、
「言葉」と「音」の力を借りて表に現れたものが「歌」となる。

人間は、感情が高まってくると声が大きくなり、
落ち込んでいるときは声が暗くなるように、
オペラの場合は、この「心の動き」をかなりの割合で
「音楽」が助けてくれるのだ。

例えばヴェルディのオペラ「アイーダ」から引用すると、
第2幕1場でアイーダとアムネリスが言い争っている…。

アムネリス「…ってことは、私はあんたの恋のライバル。
       あんたのライバルは、国王の娘なのよ!」(挑発)

アイーダ 「恋のライバル?いいわ!受けてたつわよ。」(挑発に便乗)

      アイーダが自分の言葉の重大さに気づく(驚き)

アイーダ 「ああ!私ったら、身の程知らずな…。許して…。」(後悔)

たった30秒の間に、これだけの感情の動きがあり、
この斬るか斬られるかの真剣勝負を、完璧に音楽で表現している。
まさに「神業」である。

ただ、演劇と違ってオペラの難しさは、
心の動きに対して、自分で勝手に「間」が取れないということ。
音楽は決して止まってはくれない…。

制限時間内で表現する「心の動き」。
すべてがオペラ歌手の力量にかかっているのだ。
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by scalaza | 2006-12-13 01:49